昭和四十六年六月十一日 朝の御理解


X御 神 訓  一、神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。


 みかげというと霊験と、顕ると言うこと、その顕るが見えると言うこと。神信心して霊験が表れると言うことは、これは不思議な事ではないと言うこと。そこで、これは金光様の御信心に限りませんですね。あらゆる信心と名のつく信心が、そういう一つの霊験を見たり、又は顕したりする事が出来る。それはもう何々様と言う事もいらん。それは木立ちを拝んでも吾が心に神がござるからおかげになるのじゃと仰しゃるようなおかげが、それこそ医者に見放されたような病人が、奇跡的に助かると言ったような事があります。だからここで言うとられる神信心とはね、だからそういう事ではなかろう、そうであったにしても、そう頂いたんでは金光様御信心の尊いところには触れられないとこう思うのです。教祖がここで教えられる、神信心してと仰せられる神信心とはどういう信心か、また私どもが日々教祖様が教えておられる神信心をして、日々おかげを受けて行くと言うこと、おかげを表して行くと言うこと、もう毎日毎日が不思議とは言うまじきものと教えられるのだけれど、不思議と思わねばおられない不思議の世界に住む事だと私は思います。信心とはだから有り難いのであり、勿体ないのであり、昨日の御理解を一寸借りてきますと、信心はせぬでもおかげはやってあると仰せられる。そのおかげは仲々おかげと感じ取る事は出来ません。それは理屈を聞けば分かりますけど、本当に天地の親神様の御恩恵の中にあると言う事は、信心があっても無かっても一様に頂いとる、そういうおかげをです、私どもが日々おかげと感じれる信心とはです、私どもが日々不思議とは言うてはならんと仰せられるけれども、不思議な事じゃなあ、不思議でたまらんと言うような日々が出来てはじめて、信心はせんでもおかげは遣ってあると言うおかげに対しても、おかげと言うことが分かって来るのですね。
 私どももそうでした。一掬いの水の上にでもです、今日こうしてお生かしのおかげを頂いておる事もです、例えば風が吹いておると言うことでもです、本当に神様の働きとして有り難く受けられるようになったのは、日々が不思議で不思議でたまらんと言う、不思議の世界に住まわして頂くようになってから、私は実感を以て、例えば一掬いの水が有り難く頂けるようになったです。
 ですから、どうでも此処で教えて下さる、神信心してと仰しゃる神信心とは、どういう信心であろう、毎日毎日が不思議でたまらないと、もう今日は駄目じゃろうか、もう今日はいくまいと思いよる時に、そこに何とはなしに道は開けて来る。ああ不思議な事じゃと、今日こうして生き永らえられて居ることが、不思議で不思議でたまらんのである。その不思議で不思議でたまらん、それが神恩奉謝の心にもなって来る訳です。有り難いことじゃ、勿体ないことじゃと言うことになって来るのです。ただお願いをさして貰うて、一心にお参りをさして貰うて、こういうおかげが顕われて奇跡が表れたと言うなら、何様だって同じですよね。それはもう随分と昔から、そういう霊験を表した宗祖教祖は勿論ですけれども、そういうおかげを頂いて霊験を受けたと言う人は沢山あります。盲目が見えるようになったとか、「チンバ」が立ったとか言うような、だから私はここでね神信心して顕れる霊験と言うのは、そういうポツンポツンとした様なおかげではない。金光様の御信心はね、日々が霊験の表し続け、若しそれが切れたり途絶えたりしたら、それこそ不思議な事だと思って、自分の信心の手元を改めて行かねばならんと言うことなんです。
 私は今日初めて、そこんにきは神信心してとは、これは何様を拝んでもと、私はそういう風な意味で感じておったです今までは。でもね神信心をしてと言う金光様の信心を頂いて、いわゆる神信心してと言うのはね、ただ拝むと言うことじゃない、ただ参ると言うことじゃない、私はそういう意味で久留米の初代石橋先生ですね、石橋松次郎先生の偉大さと言うか尊さと言うもの、ま、いろんな場合に感じさせて頂くのですけれども、これは私、普通で聞ける話ではない。だけども私どもの師匠、荒巻先生だから聞けたのかもわからない御親戚関係だから。よく久留米とは御親戚の間柄ですから、まあ荒巻先生にして話された話だと思っておりますがね。
 ある月次祭の時お話して頂いた時に、ああ石橋先生の信心が、素晴らしい、素晴らしいと言うのはこれだなと思った事があるです。それは御承知のように九州の三松と言われる程の大徳を受けられた先生でございますからね。ある小倉の親教会のまた親教会であられる、いわゆる大師匠に当たられる桂松平先生のところにも御大祭の後に御直会があった。
 当時、九州で徳を受けられた先生方が綺羅星のように御直会場に並んでおられる中でです、今から御直会が始まろうと言う時に桂先生が、大体そういう直情型と申しますかね、非常に口汚いと言うか、喧しい方だったそうですね。桂先生、九州の雷と言われる位の仇名を持っておられた先生でございますから、それを石橋先生に向かってですね、桂先生が仰しゃった事はね、「石橋さん、あんたの息子は馬鹿じゃな」と仰しゃった。成る程、御長男がですね、これは私どもが見ましても一寸おかしいな、と言うような御状態でした。これは、お小さいとき頭の病気をされたのです。ですから本当にびっくりする様なことを言うたり、なさったりした事もありましたけれども、石橋先生のような、あの素晴らしい信心がです、二代を継がれた時びりっともしませんでしたからね。二代を継がれたとき、御結界につかれたら、それは大したものでした。御祈念でもして下さる時には、もう初代の御祈念と一つも変わらぬような御祈念をなさいました。だから、まあそういうおかげを受けられたんでございますけど。
 「石橋さん、あんたとこの息子は馬鹿じゃな」と、吐き出すように仰しゃるですね、その時に石橋先生が、間髪を入れずに仰しゃっておられる事は、「親先生おかげで信心ができます」と、仰しゃったそうです。もう桂先生もほとほと感心されたのでしょうね、「石橋さんでかした」と言うて、一番に盃を差されたと言う話が残っておると言うて、私は荒巻先生から話して聞かせて頂いたんです。もう石橋先生の信心はね、此処だったと思うのです。
 今日は私がね、皆さんに聞いて頂きたいという神信心とはね、そういう信心なのです。例えば人から馬鹿といわれても、阿呆といわれても、例えば辱めを受けるような事があっても、どういう難儀に直面しておっても、難儀そのこと自体をです難儀とせずに、その事のおかげで信心が出来ますと言うような、神信心を以て日々不思議で不思議でたまらんと言ったような、おかげを表して行くことが出来ると言うこと。私はここを初めて分からして頂きました。皆はその難儀を逃れたい逃れたい、それは痛ければ、苦しければ、そこから逃れたいと言うのが普通ですけど、段々信心さして頂いとりますとそこらがです、おかげで信心が出来ますと言うような境地が開けて来る。そういう信心を以て日々不思議でたまらんなあ、本当に有り難い、勿体ないと言う信心生活ができる。だからこそ、信心はなくともおかげはやってあると仰せられるような、本当の意味に於いての大きなおかげ、本当の意味でのおかげである。そういうおかげに対して、おかげに実感できるところに日々が有り難いものになって来る。いわゆる神恩奉謝の生活が出来る事になってくる。神信心してみかげの顕ることを、みかげのある神信心とはそういう信心だと言うことをね、でなかったらね毎日不思議で不思議でたまらんと言うおかげは表れて来んです。そこで私の信心を皆さんがもう一ぺん頂き直し、聞き直して頂きたい事はです、過去二十年間に様々な事がありましたけども、様々なことをおかげで信心が出来て参りました、その都度都度、おかげで信心が出来ましたから、そのおかげで、その合楽は、その都度都度で大きくなって参りました。
 昨日お月次祭を頂いて、お話をさせて頂いて裏へ下がろうとして居るところへ、親先生伊万里から電話ですよと、だから私まだ此処へ居りましたから、すぐ電話聞かせて頂いたら竹内先生からでした。ただ今月次祭が終りました、月次祭度にあちらでも月次祭があっているのですね。いま月次祭が終ったところでございます、私もいま下がったところでございます、実はこういうお願いがあっとりますと、お話をされたのがね、あちらに大変大きな商事会社で松栄商事という商事会社がある、その中に大変難儀な問題が起きておるから、その事をどうぞおかげを頂きますようにと言う事であった。私はその時に本当に感じましたですね、今晩私が話した事(夕べですよ)を本気で頂いて下さるなら、もう絶対、松栄のおかげが受けられる。松が栄えると言うことは、神様も栄えて下されば、私どもも栄える。いわゆる本当の意味に於いて神と人とが栄えて行けれる、それを私どもが只、自分が栄えること、自分がおかげを頂く事だけが信心のような観念にかられておりますから、では良い信心が出来んのです。 今日私、御神前でこういう事を頂いた、こんな字はありません、木偏に念ずると書いてある、御祈念の念です、そんな字はありませんよね、これに上にノの字を書くと禾偏に念という字は稔という事になります。けれども私が頂いとるのは木偏に念ずる、と言うことは言わば今日申しとりますような、神信心以外の神信心です。いわゆる心で願うとか念ずるとかの意味でしょう。それだけではね本当の稔に絶対にならないと言うこと。これにもう一つノの字を書かなければ本当の稔にはならない、本当の稔と言うことは今日私が申します、不思議で不思議でたまらん不思議の世界に住むことです。と言うおかげの世界に実感できれる世界に住むことなんです。只お願いをしておかげを頂いたと、ああ不思議な事じゃある、そういう不思議ではない。今日、私が皆さんに聞いて頂いとるのは、不思議と言うのはもう日々がです、不思議で不思議でたまらんと言う、そうして今日教典を頂かして貰ったら、ここんところを頂きました。そして今日初めて頂く神信心と言うところがです、どういう意義を持つものかと言うことを初めて分からして頂いた訳であります。
 次に松の字を頂いた、木偏に公と言う字が書いてある。心がいつも公(おおやけ)、いうならば私以外のことでも申しましょうかね、公のこと、個人、自分自身の大きな意味合い、大きな心、大きなおかげと、信心さして頂くとそういうところに段々信心がお育てを頂いて、それこそ天下国家のことが真剣に祈れるようにならなければいけません。
 私が有り難いと思うことは、一昨日でした、日田商業に通うております一番下の息子です、今年から高校に行っとります。いま日田地区に赤痢ですかね、赤痢が大変に流行っているのですよ、それに自分の学友の中からも三人それがあると言う訳です。どうぞそれが蔓延せんように、日田の市民の方達の上におかげを頂きますように、今日から断食に入らせて頂きますと栄四郎が願って来ました。有り難いなあ、もうそれこそ習わずして経を読むちゅうのはこの事じゃろうかと思いました。未だ言うなら十五、六の食べ盛りのですね子供の、いわゆる日田市に赤痢が流行、また自分の友達が、又身近に患っとると聞いて、断食させて頂いてでもそれを願うと言う心、そういう心が育って行くことなんだ信心とは、それが言うならば天下国家の事までも実感を以て祈れるような、ただ口で称えよと言うならばどげな事でも称えられます。世界総氏子のことでも、世界中のことでも言えます。だから言うと言う事ではない、それを言わば木偏に念ずるとはそういう事ではないでしょうか、ただ木偏に念、ただ称え事で言いよるのです。それでは然し本当の事は稔らないと、それでは上にノの字が一つ入らんと、それが一つノの字が入ると言うことを、今日私はおかげで信心が出来ます、と言う信心だと思います。未だ例え栄四郎の事でいうならばです、そういう日田にそういう病気が入ったおかげでです、そう言った断食修行と言った修行がおかげで出来る訳であります。
 次にね手偏に分という字を頂きました。こんな字があるかなあと思うたんですが、やはり有るようですね、手偏に一分二分の分です。これはね、まぎらわしいと言う字ですね、高橋さんそうですか、手偏に分という字、まぎれる、まぎらわしいという字、まぎれる、私は大体そういうふうに頂いて感じたんです。と言うのはですね、まあ例えて申しますと、子供が言うことを聞かぬと致しましょうか、だから手偏ですね、叩いてそれを分からせようとする、叩いてね分かる、手偏に分という字。成る程そういう風で神様にお願いして叩いて頂いて、分からせると言うことですけれども、おかげがまぎらわしくなって参ります。それでは、例えば病気でもそうですよ、それは薬を飲んじゃならん、医者にかかってはならんじゃないですけれども、本当に薬一服でも、注射一本でも、神様のおかげと本当に分からせて貰らわんとですね、ああ、あの注射は利いたちゅう事になります。はあ、あの薬は利いたと、神様のおかげであるけれども、そげん言わば叩いて分からせたとか、頼っておかげをと言うのはね、それが、おかげがおかげと実感できないです。おかげを本当に頂いとっても紛らわしうなるです。私はそのことを頂いてから、本当にね合楽の行き方というのがね、いかに素晴らしい生き方を、本当に真の力を下さろうとする働きだけしかありよらんなと合楽では思うです。
 昨日ある教会の総代さんが、二人の総代さんが一緒に胃癌といわれた。それが一人は医者で手術をされる事になり、自分は合楽のことを思い出してお願いに来て、一生懸命お願いなさってお参りをなさった。お知らせを頂いて安心と言うことを頂いておったから、お願いさせて頂いて、昨日病院に再診察に行って、また胃の中にカメラを入れて写したところが、前にカメラを入れて写しとったところが、胃癌の癌の巣になるところがもう無かったと全然、そこに至って初めてですね、ああ神様ちゃ大変な働きをして下さるなあと言うことが分かるでしょうが。どうでしょうか、手術してからおかげ頂いた。それが私の方の幹三郎のような神ながらな、医者に行ったと言うならこれは又別でしょうが、けども本当にお願いしておかげ頂いたと言いますけどね、やはり手術がよかった位のことしか思いません。あの注射が利いたぐらいしかならんでしょう。おかげが紛らわしうなって来ましょう。だからおかげが紛らわしう、おかげ、神様のおかげも半分、私どもの努力も半分ちゅう、努力そのものもおかげと頂ける信心をね、私は合楽では皆さんに求めておられるように思います。
 皆さん神信心してという神信心とは、そういう石橋先生がです、満座の中で言わば顔から火のでるような、恥ずかしい目を受けられるような場であっても、先生おかげで信心が出来ますと、その次にはもう石橋さん出かしたと言う御褒美がちゃんと待っとると、神様でも同じこと、そこをねそのような頂き方、おかげで信心が出来ますと言う信心を、今日はここで神信心、そういう信心をさして頂くならばです、必ず日々が不思議で不思議でたまらん、人間の「幸」と言うことを、只心だけが助かっておると言うけれども、心が本当に助かっておるならば、人間のすべてがこれに伴わなければならんのです。必要なら必要なものが、必要に応じて頂けれる、そういうおかげを日々頂いて御覧なさい。どんなに考えても不思議で不思議でたまらんなあと言う事になるのです。そこから有り難いなあ、勿体ないなあと言うことになって来るのです。
 私どもが様々な難儀に直面した時にです、それを神様にお取次を願わずに、お願いもせずに人頼みにしたり、又は言うて聞かせる、叩いたりして分からせたんでは本なもんじゃ無い、言うて聞かせたけんあれが分かったごと、おかげとは思うばってん言うて聞かせたっが大分功を奏したと言うことになるのです。だから言うたり叩いたりせずにです、神様にお縋りをして、お縋りをすると言うことは、例えば石橋先生の御信心の素晴らしさはね、弟子達がいろんな不調法いたしますと、決して小言を仰しゃらなかったそうです。小さい事には、日々の事には非常に喧しかったそうです。けれども何か大変な不調法でもしでかした時なんかはね、もう絶対仰しゃらなかった。だから心が大きいと言う風に言われなさいましたけれども、私に言わせるなら恐らく石橋先生はね、その弟子の不調法は師匠の不調法として、神様に詫びぬいて行かれたんじゃなかろうかと思います。だから仰しゃられなかったんです。そういう生き方なんです。叩かんで済むでしょうが、言わんで済むでしょうが、そこにはね弟子も助かるでしょうが、師匠も助かって行く道が開けて行く。
 この頃から、有田の茶碗市に菊栄会の方達と参りました。あの時に竹内先生の御案内でしたから、大きな窯元で沢山皿にいろんな字を書かして貰うて、それが焼き上がったと言うて四、五日前持って来て下さった。沢山皆さん書いとられます。中に珍な字を書いとるのがいっちょ有りますもん。楽と言う字を書いとるとです。皿のなかに一つ大きく白という字を書いて、糸偏を書いて、木の字を小さく書いてある。どうしてこげなもんば書いたのと言いましたら、菊栄会のものは心が小まかけんで、気が小まかけんで菊栄会の代表で、正義さんか、誰か書いたらしいです。菊栄会の者は気が小まかけんで楽にはなれん、御理解いつか頂きましたね。
 楽になると言うことは、心が大きくなると言うことだと言うこと。こんな木を大きくしなければ楽にならんですから、心を大きくすると言うことは、ただ生まれつき大きいと言う人がありますが、そういうもんじゃない。私が今日申しますような内容を持っておるから、それが大きくしておれるのだ、豊かにしておれるのだと言うこと。そこに難儀が起こして頂いても、その難儀をああ、困ったとは言わんのです。その難儀のおかげで信心が出来ます、と言うそういう心なのです。それが楽なのです。
 今日どうぞ、一つ神信心を教えて頂いとる信心を本気で、身につけさせて頂こうと言う気になられて、やはりそこに一心発起されなければいけません。本気での本当の意味に於いての神信心をさせて頂こう、そして、いうなら刻々霊験を表して行ける程しのおかげを頂こう、それは決して不思議なことでも、特別のことでもない、それはもう当たり前のこととしてと、ここでは教えておられます。不思議とは言うまじきものと教えとられます。けれども不思議と思わねばおられない程しの不思議な世界に住まわして頂く、信心を本当の意味に於いての神恩奉謝の有り難い生活とは、私はそういう生活を言うのではないかと思いますね。  どうぞ。